2004年01月15日

プロレス対バーリ・トゥード

Date: 2003-05-06 (Tue)

今日のオススメ曲「ピンク・レディーの透明人間」

 5・2東京ドームで開催された新日本プロレス興行は「Ultimate Crush」と題された。“究極の衝突”とは、プロレス対バーリ・トゥードである。以前、蝶野正洋が「新日本プロレスはプロレスを売る興業会社だから、もっとプロレスに誇りを持って商売をすべき」と述べた。その興業会社が11試合中4試合を総合ルールで行なったという事実。これは時代への挑戦だった。

 PRIDEをはじめとしたリアルファイト系格闘技が台頭し、プロレスはエンターテイメント系と言われ続けている。果たしてこれらを二分化させることすら間違いではないのか、というのが同興行の極めどころである。
 「プロレスはショーである」と語られてきた昨今、なぜ今「プロレス興行の中でバーリ・トゥードをやらなくてはならないのか」と多数のファンが問いかけた。答えは1つ---プロレスラーが一番強いことを証明するために、総合ファイターを叩きつぶす、ということである。
 私自身、プロレスと格闘技は別モノと考えてきた。プロレスにはシリーズ(地方巡業によるトレイル)があり、ワンシリーズごとにテーマが敷かれている。シリーズを通してドラマを作り上げ、どう最終興行まで持たせるかが、プロレス的な流れである。因縁、遺恨、復讐などは、元々プロレス興行における専売特許であった。だから、年間に数試合しかこなさない総合系とプロレスが同じものとするには、異論を唱える者も少なくない。
 
 そもそも総合系とプロレスとではルールがまったく異なる。同一であるという方が間違っていると感じていたが、アントニオ猪木曰く「闘いにプロレスも総合もない。リングに上がれば同じこと」。それを5・2で証明するのだった。
 だが、本当に同じであろうか。受け身を知らない総合選手がブレーンバスターを受かられるのか、ロープに振られたときに振られたことを拒まず飛べるのか。ガードすることをしらないプロレスラーが、顔面へパンチを出されたときに対処できるのか。
 確かに、リングに上がれば、あとは試合をするのみ。それを生かすも殺すも、選手に懐ねるしかない。意思の疎通なしに、どう内容が企てられるのか。こう考えてしまうのは、プロレスファンである。
 中西学もプロレス上位概念論を唱えた。格闘技はプロレスの下にあるものとして、彼は「降りてやる」と語った。
 やはり、プロレスと総合系は別モノであり、同じ興行の中で別々に見せるのは間違いだろうと思っていた……が、5・2ドーム決戦を見て、その思いも吹き飛んだ。
 
 試合のクオリティーを考えると、納得できるものは4、5試合だけであったが、興行全体をとおして見れば、なかなかよかったと思わざるをえない。
 プロレスとバーリ・トゥードを1つの興行でやることすら無謀なのだから、結果を優先させれば大成功である。
 特に、ヤン“ザ・ジャイアント”ノルキヤと対戦した中邑真輔は、往年のキラー・イノキを再現させた。デビューして1年足らずの選手である。彼のような若者が勝利した事実は、新日本プロレスの将来は有望というもの。今後、彼がプロレスルールでどれだけ急成長を遂げるかが注目されるが、未来のエースであることは間違いないだろう。
 試合としてはエンセン井上対村上和成戦には殺伐としたものがあり、両者ともに同団体所属ではないものの、新日本プロレス的ケンカマッチを見せてくれた。
 
 新日本プロレスはUltimate Crushを通じ、ファンに「闘い」を見せてくれた。それはプロレスだの、格闘系だのを問わない内容だった。事実、ダメは試合、選手を挙げればキリがない。そこから目覚めるファイターがいるからこそ、また足を運びたくなる。
 ただし同大会で、永田裕志は至宝のIWGPヘビーのベルトを奪われた。今後の展開を残すには最高の締めくくり方だったといえる。

Posted by DODGE at 2004年01月15日 18:18 in 2003.5〜8月