2004年01月08日

田村潔司の集大成

Date: 2003-03-01 (Sat)

今日のオススメ曲「三原順子でセクシーナイト」

 UWFの血を引く最後の遺伝子、田村潔司がU-STYLEを旗揚げした。当初、UWF JAPANとして興行を打つつもりだったが、数日後、U-STYLEに変更。2月15日、お台場ディファ有明での第1回興行は、超満員札止めとなった。
 ここ数年間でK-1やPRIDEが台頭し、所属選手を持たない格闘技イベントが幅をきかせてきた。それ以前のものといえばプロレスが主体で、プロレス団体は選手と契約を交わしているものの、社員のようなかたちで試合をこなしていた。
 だが、K-1やPRIDEは選手を持たずして興行を開催する。要するに、闘う場所を提供することで、“誰が一番強いのかを決定するリング”と化していた。旧UWF、第2次UWF、UWFインターはともに所属選手を抱えていたが、このU-STYLEはUの名前を受け継いではいるが、興行形態はK-1やPRIDEと同様の「闘いの場所を提供するリング」。Uのスタイルで闘いたい選手を集結させて行う格闘技イベントである。ここが今までのUと異なる部分だ。
 
 元U系の選手、いわゆるUインターに所属していた選手は同団体崩壊後、各々の方面へと進んだ。純プロレスに走る選手、総合格闘技へ行く者、リングス入団……などと世界感が異なった。
 だが、転換期となったのは、忘れもしないPRIDE23、高田延彦引退試合である。高田は田村と相まみえたが、田村を指名した本当の理由、それは、8年前に「高田さん、ボクと真剣勝負をお願いします」とアピールした応えではなく、高田から田村へのUWF後継者の意思確認。田村にUWFの灯火を絶やさず、後世に継いでゆけるかの以心伝心だったのだ。
 あの試合展開、勝負強さ、師匠の引退試合にも係わらず勝負に拘る男気。高田は、田村なら大丈夫だと感じていたに違いない。高田が現役から退くことで、Uの看板を背負う先輩たちは、田村の前から消えた。前田日明、船木誠勝も田村直属の恩師となるが、彼らは皆、リングを去っている。
 これで田村が“UWF”という紋章を心おきなく使える立場になった。
 
 U-STYLE旗揚げ戦、メインのカードは坂田亘vs田村潔司。元リングス同士。宿命のライバルがU-STYLEルールで一戦を交えた。他にも村浜武洋、上山龍紀、藤井克久、滑川康仁なども参戦している。
 至高のカードをファイナルに添え、入場式ではUWFのテーマが鳴り響いた。チケットが売り切れだったため仕方なくPPVで観戦したが、Uのテーマとともに手拍子をせずにいられなかった。
 
 田村は言う。「リングス(や総合格闘技)では勝たなきゃいけないけど……」と。これは非常に意味が深い。“U-STYLEでは勝たなくてもいい”のではなく、技術の攻防を魅せることで観衆を満足させる。1度や2度技が決まったとしても、4回までロープブレイクが許されている。技がキマったらギブアップするのではなく、ロープがある分、試合時間を長くすることが可能となった。
 試合内容でファンを楽しませようというポイントがPRIDEとは違うのだ。
 
 また田村は「U-STYLEはプロレスです」とも述べているが、それがすべてを語っている。プロレスは肉体と肉体のぶつかり合いであり、魂のぶつかり合いでもある。
 田村・坂田戦では、田村がスタンディング・ポジションから坂田の足首を脇に抱え、「坂田、張って見ろよ!」とばかりに顎で煽りを入れたシーンがある。坂田は1発めの張り手を田村の頬に入れるが、田村は「それだけか!?」を再度、坂田を煽る。坂田はもう1発張り手を入れると、今後は背中をマットにつけた坂田に田村が張り手を返した。
 張り手の雨あられ。折れない闘魂がここに存在した。
 これは、プロレスでしか成しえないドラマチックな展開だ。総合格闘技ではこのような攻防はありえない。
 関節技を決められ、苦痛の表情でロープへと手を伸ばす。痛さに耐えかね、タップをしそうになるも耐え抜き、観客が沸き上がる。これは、純プロレスでいう「ワン、ツー、スリー!」と入りかけで入らなかった際に起こるあの拍手に相当する。ファンが感情移入して見ることのできる試合展開。これも総合格闘技にはない臨場感だ。
 
 田村は試合後のマイクで、「U-STYLEはまだまだ完成型ではない」と語った。どこまで進化するのかすでに想像の範疇を超えている。ただ言えることは、U-STYLEはまさにユニバーサルな空間だった。

Posted by DODGE at 2004年01月08日 16:14 in 2003.1〜4月