2005年11月15日

ローランド・マーチン、トーナメントから引退

martin_tribute_top2.jpg 「ローランド・マーチンも来季BASS CITGO Eliteシリーズに参戦決定か!?」と思いきや、トーナメントシーンからの撤退を表明した。BASS 37年の歴史の中で、バスプロといえばマーチン、マーチンといえばバス業界のビッグスターでありシンボル的存在。バスフィッシングシーンの底上げにも大いに貢献した。1985年には初来日を果たし、我が国のシーンにも大きな影響を与えた。今年で65歳を迎えたマーチンは「そろそろ潮時だろう」と感じたという。今後はテレビ番組「フィッシング・ウィズ・ローランド・マーチン」のホストを続けつつ、シーンとは関わりを持っていく予定。AOY獲得9回、バスマスター・クラシック出場25回のバスフィッシング・レジェンドの現役引退によって、シーンはひとつの節目を迎える。

 「若いアングラーが出てきて、単純に彼らのほうが釣りが上手いと思った。私は自分に誇りを持っている。成績は上がらないし、そろそろ潮時だろうと考えた」とマーチン。「(トーナメントシーズンが終わり)今は試合のことは気にせず素晴らしい日々を送っている。最近はメキシコでマグロ釣りを楽しんだし、ハンティングに行ったときは、大物を仕留めた」と競技の世界から解放され、自由な時間を気ままに過ごしているようだ。martin_tribute_onboat2.jpg

 BASSは「マーチン引退」と報じたが、マーチン自身は“引退”は適当な表現ではないと思っているようだ。先日、BASSの特別会員向けチャットにマーチンが出席したとき、下記のコメントを残した。
 「トーナメント参戦の合間を縫って契約スポンサーのプロモーションをしたり、年間23回分のTV番組撮影をやっている。これまでは試合数が少なかったが、Eliteシリーズは全11試合(+メジャー3試合)。その試合数では今までどおりの仕事をこなせない。その変わりレッドフィッシュ・ネイション・トーナメントには出場する予定だ」と述べているため、完全なリタイアメントではなく、BASSのバストーナメントからの撤退と考えたほうがよさそうだ。

martin_tribute_tourney2.jpg 1967年、「仲間内の大会ではなく、スポンサーが付いたトーナメントをスタートする。賞金も授与する。全米各地の地元で有名なアングラーたちに声をかけ、ナンバー1を決定したい」のコンセプトの基、保険会社の営業担当だったレイ・スコットが本格的バストーナメントを開幕。B.A.S.S.(現BASS)を始動させた。
 噂を聞きつけた106名のアングラーが、当時 “釣り大会”としては高額なエントリーフィー100ドルを支払い、オールアメリカン・インビテーショナル・バス・トーナメントがアーカンソー州ビーバー・レイクで開催された。優勝はスタン・スローン。その後スコットは年間数試合を重ね、B.A.S.S.をトレイル化させた。そんなニュースが交通事故で肋骨を負傷し療養中だったローランド・マーチンに伝わる。当時、サウス・キャロライナ州サンティークーパーをベースにガイドサービスを営んでいた彼も釣りには自信があった。「とにかく、参戦する前にどんなものかを見る必要があった」と語るマーチンは、1969年7月10-12日にかけてアラバマ州レイク・ユーファウラで開催されたアラバマ・ナショナル大会を訪ねた。

 この大会でマーチンは衝撃的な事実を目の当たりにする。1968年6月、ユーファウラ・ナショナルをもって、B.A.S.S.はレイク・ユーファウラに初見参したのだが、ウイナーのジョン・パウエルが15尾リミット(キャッチ&リリース制度は導入されておらず、選手はストリンガーにバスをぶら下げてウエイインした)で132Lbという驚異的な記録をマークしていた。当時の平均ウイニングウエイトは50Lb程度。余裕で2倍を越すビッグウエイトである。そんな大会から1年、マーチンが見学に訪れた大会でブレイク・ハニーカットが138Lb6ozをマーク(この記録は15尾リミット制時代、誰にも破られることはなかった)。誰もが破れないと思っていたパウエルのレコードをマーチンの目前で塗り替えたのだった。「彼らはスゴすぎる。私には無理かもしれない」と思っていたところに、レイ・スコットが現れた。「バストーナメントという新競技をスタートさせたんだ。トライしてみてはどうだ」と声をかけた。

martin_tribute_1staoy2.jpg マーチンは出場を決意する。1970年、B.A.S.S.参戦初年度、彼は1戦めから順に2位、1位、2位、16位、5位、2位でフィニッシュ。しかし、上には上がいるもので、B.A.S.S.史上初代AOYはビル・ダンスが獲得した(古いBassmaster Magazineを読み返すと、初代AOYはビル・ダンスとなっている。しかしバスマスター・クラシックが1971年からスタートし、それに合わせるためか、現在BASSの資料には1971年からしか歴代AOYが記載されていない)。
 上位入賞を連発させたが、年間優勝を逃し屈辱を味わったマーチン。翌年(1971年)、1戦めから順に2位、8位、2位、1位、4位に入賞。初AOYを獲得。その後彼は、9度のAOYを獲得する。

 マーチンはBASSにおいて、35年間で279試合に出場。賞金圏には185回、優勝19回、2位19回、3位6回、10位以内の入賞は92回(1-3位分も入る)、AOY獲得9回はいまだ破られていない。

 バスマスター・クラシックには25回クオリファイされたが、実は1度も優勝経験がない。クラシックでの最高位は1980年大会の2位である。
 そのクラシック1980年大会について、彼は興味あるコメントを残している。「あの大会で優勝したボー・ドーデンは、私が釣ろうと思っていたエリアでビッグフィッシュを釣りあげた。最終日の最後の時間を使ってそのエリアに入ろうとしたら、ローカルアングラーがその場所にいてこう言ったんだ。『ボーがそのエリアに入って6パウンダーを釣って帰ったぞ』と。あの瞬間、これはボーのゲームであって、私の出番ではないなと感じた。もし午前中に入っていたら、あのビッグフィッシュを釣ってクラシックで優勝していたかもしれない」と語る。
 またマーチンは「もし早い時期にクラシックで優勝していたなら、10年早く引退していたかもしれない」とクラシック制覇へのモチベーションで大会参戦を続けていた事実も告白している(ちなみに、クラシック1979年大会と1989年大会を制覇したハンク・パーカーは、2度めのビクトリーでトーナメントシーンから撤退。その後はプロモーションとTV番組のホストに専念している)。

martin_tribute_withrick2.jpg 35年間のBASSトーナメント参戦でバスアングラーの象徴になったローランド・マーチンだが、トーナメント引退に悲観的な感情は持っていないようだ。前述のチャットでマーチンは「試合を通してできた友達やスタッフと会えなくなるのは悲しい。だが、私はトーナメント参戦を私のメインジョブだとは思っていない。参戦はその他のもっと大きな仕事を得るための架け橋にすぎないと考えている。だから、Eliteシリーズに参戦すると、トレイルがほぼ通年開催されるワケで、そうなるとプロモーションの仕事をしたり、TVの仕事がおろそかになる」と語っている。

「トーナメントは素晴らしい。コンセプトも素晴らしいが、訪れたことのないレイクに行けるし、釣りができる。釣りを通してライバルと呼べる友ができた」と思い出を振り返る(写真右上はリック・クラン。彼とマーチンは、1年間をかけて集計されたグレート・アングラーズ・ディベートの最終審査にまで残り、クランがGADを獲得した。受賞が決定したとき、マーチンは「リックがGADに輝いたなら、私も文句のつけようがない。彼は素晴らしいアングラーだ。彼と最終審査に残れて光栄だ」とコメントしクランを称えた)。

 今後マーチンは、レッドフィッシュの大会に参戦を予定している。また息子のスコット・マーチンとともに、ペアトーナメントへの出場も考えてるようだ。

.::ローランド・マーチンに関するトリビア::.
martin_tribute_powell2.jpg 1971年、ローランド・マーチンは、ジョン・パウエル(プロアングラー)、レイ・スコット、ハロルド・シャープ(トーナメント・ディレクター)と共に1台の貸切バスに乗り、全米をセミナートレイル(バスフィッシング・セミナーをとおし、テクニックやシーン、BASSに興味を持ってもらうための布教の旅)に出ていた。第1回バスマスター・クラシックの数ヶ月前、彼らはネバダ州ラスベガスにセミナーで立ち寄った。その際、丸1日オフの日があり、マーチンは「せっかくだから、レイク・ミードで釣りがしたい」と会食の場で申し出ると、スコットとシャープが、かなりキツく“ノー!!”と言い、釣行に許可を出さなかったという。いろんな理由をこじつけ、マーチンを説得。ミード釣行はお預けとなった。数ヶ月後、第1回クラシックにクオリファイされ、ミステリーレイクへと向かう飛行機の中で開催地はレイク・ミードだと告げられる。マーチンはパウエルと顔を見合わせ、「あのとき、『なんか様子が変だ』と気づくべきだった」と苦笑いしたそうだ(写真右はジョン・パウエル)。

 1985年に初来日した際、日本にはまだバスフィッシング専門誌は存在しなかった(“Basser”は1986年、季刊誌としてスタートする)。月刊“つり人”が来日時のレポートを2号にわたって掲載。インタビュアーは田辺哲男さん、平本正博さん、徳永兼三さんが行なった。レポート第1弾を掲載した1985年12月号102ページの下部に日本人アングラーがマーチンを囲んだ集合写真が掲載されている。ちなみに、マーチンの横に立っている少年は、スコット・マーチン(当時10歳、現在30歳)である。martin_tribute_bush2.jpg

 ローランド・マーチンは1992年に1度トーナメントシーンから離れている。その年、数試合出場後、レギュラートレイルから撤退。しかしB.A.S.S.25周年アニバーサリー・トーナメントやスーパースターズ、メガバックスなどの単発のメジャー大会には出場していた。1994年から完全現場復帰。再びバスマスターTOP100(現Eliteシリーズ)に参戦した。

 2004年4月9日にはジョージ・W・ブッシュ大統領と大統領所有のプライベートレイクで釣りを行なった。

+Fishing with Roland Martin
+Roland Martin's Marina
+Redfish Nation
+Bassmaster.com

Posted by DODGE at 2005年11月15日 18:40 in 海外トーナメント:BASS, 海外フィッシング事情, スナップショット

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