W.B.S.プロチーム・トーナメント第2戦
開催日:3月28日



 バス釣りを語る際、私はたびたび「あのころは……」と回想を交えることがある。80年代初期からバス釣りをはじめた私の拙い経験も、もう20年になる。だが、過去を経験したからこそ今の自分があるのだと思う。“今日”、“現在”を語るためには、過去を振り返らなければならないし、未来を想像するときも、“現在”の状況がベースとなって話が進む。つまり、過去、現在、未来は独立した“点”ではなく、すべて一本のレールで繋がった時空列車だといえる。
 多くの人々にとってバス釣りは趣味以上の存在であり、ライフスタイルそのものである。趣味が仕事に発展した人も多いだろうが、世間から見れば「釣りが仕事」というプロアングラーは、非常に理解しづらい職業だ。国内でプロアングラーとして生計を立てられている者はごくわずか。“魚を釣る”仕事とはいえ職漁者とは異なる不思議な世界である。大きな違いとして職漁師は捕った魚を販売するが、プロアングラーはキャッチ&リリースが原則。それがバストーナメントであって、この形式は過去から受け継がれ、未来へと継続される。
 ところが、バスのリリースが禁止された場合、それが競技として成立しない。当たり前だが、プロアングラーにとって過激なほどに致命的な状況である。そんな異常事態がすでにいくつかの県で発生している。
 吉田幸二さんは、どうにかこの状況を改善しようと日夜努力を惜しまず駆け回っている。魚道設置推進基金や署名集めにしても、これらはあくまで霞ヶ浦のためであって、バスアングラーのための運動。ゴミ拾いにしたって、自ら進んで行なっている。「ゴミ拾いで労力を使いましたから、清掃費、補助金をください」と政府に申し出ているわけでもない。「みんなのカスミなんだから、キレイな場所の方がいいじゃん。キレイな場所で釣りがしたいもん」と、それだけなのだ。だから、市民団体にもW.B.S.の活動が認められている。
 そんな吉田さんは、W.B.S.2004シリーズ第1戦に続き、第2戦でも会場で姿を見せなかった。いや、W.B.S.は横山鉄夫会長やスタッフ、参戦アングラーに任せ、自分はバス釣り再構築行脚のため石川県金沢市で開催された北陸フィッシングショーへと向かっていた。吉田さんはこの地でまたバスアングラーのあるべき意識改革を述べたに違いない。
 ところが、そのころ霞ヶ浦では多数のアングラーがタフなコンディションに悪戦苦闘していた……。

異常気象のツケは選手のウエイトに


 昨シーズン第2戦(ツーデイ大会)といえば、話題の多い一戦だった。優勝した市川好一/鳥澤徹チームは2日間連続で安定したウエイトを持ち込み、見事な逆転優勝を飾った。3位入賞の峯村光浩/安藤毅チームは共に、2003年AOYとNOY(ノンボーター・オブ・ザ・イヤー)を獲得。後に峯村さんは「第2戦でリズムを作った」と語っている。また、この年、初のボーターとして第2戦に臨んだ中嶋美直さんは、初日のトップウエイトを叩き出した。昨年の第2戦時は、今年のように桜は咲いておらずまだ蕾のままで、肌寒い天候だった。
 そう、会場となる茨城県土浦市で桜が満開となったのは大会の2週間後。朝はボートに霜が降りるほど気温が下がり、春の雰囲気からはほど遠かった。例年より2週間早い開花となった今年の桜は、昨年と比べると1ヶ月早い計算になる。昨シーズン第2戦のデータはあまりあてにならない、ということだ。
 
 
  今年の冬はやはり例年に比較して暖かかったが、3月に入って突然気温が上昇しはじめた。3月2週めには気温が20℃にまで上がり、水温も12℃をマーク。この週、数名の出場アングラーに連絡を取ってみると、誰もが「このまま水温が上がるか、安定していれば、いい試合になる」と語っていた。しかし3月第3週、気温が10℃を割る状況に一転。水温も8〜10℃と低迷した。これによってバスはディープへと落ち、パターンを見失った選手が続出した。
 そして大会を週末に控えた3月第4週は、前半は雨と曇りの連続。水温は必然的に冷やされた。これで試合の行方がさらにわからなくなった。シャローなのか、ディープなのか。ブレイク周りのバスはスポーニングモードなのか、川バスはベイトを追ってアクティブなのか。第4週はオフリミットであるため、すべては大会前日の公式プラクティスで調整するほかなかった。
 W.B.S.プロチーム・トーナメント第2戦は3月28日に開催され、結果、35組出場中19組のみがウエイイン(54%)という波乱の大会となった。今から遡ることおよそ3ヶ月、2003年12月7日に第1戦が開催されたのだが、39組中13組のみがウエイイン(33%)という、史上最悪の試合であったことを考えれば、まだ今回の表彰式は華やかなものだったといえるだろう。
 優勝した長岡正孝/海藤真也チームは3尾で3660gをウエイイン。これは尾数とウエイトと共にトップだが、7位に入った本山博之/宮澤孝博チームは3尾でも1550gと伸び悩んだ。2尾をウエイインしたのは5チームで、その内、中島光博/吉田和之チームが2位に入賞。3位に入った粟島英之/布川昭男チームは1尾で1960g、今大会のビッグフィッシュ賞も同時に勝ち取った。
 注目は今大会6位に入賞した高野和之/橋本悟チームの高野さんで、彼は今年からボーターとしてエントリーをしているが、実際にボーターとして出場したのはこの第2戦から。初ボーター・初入賞を果たしただけに、今後の活躍が期待される。


長岡正孝完全復帰宣言
初優勝で沸き上がる今後の展望


 W.B.S.プロチーム・トーナメントの表彰式が終わり、初優勝を果たした長岡正孝さんとパートナーの海藤真也さんがステージから下りてきた。先輩後輩、仲間意識の強い“山田塾の叱られ役”として何年にも渡ってその地位を不動にしていた(?) 長岡さんが優勝したのだ。歓迎ムードで迎えられて当然だろう……と思っていた。ところが、塾生たちはいつもと変わらずクールを決め込んでいる。誰かが「やったじゃん」と声をかけたが、ワイワイガヤガヤというお祭りムードとは違った。何かがおかしい……と思っていたら、サプライズが起こった。
 長岡さんは、W.B.S.の女性スタッフから花束を渡されたのだった! これを皮切りに、塾生が「長岡ッ! ヤリやがったな、このヤロー!」、「長かったなぁ〜」、などと声をかけられ、握手をせがまれ、やっと拍手喝采で仲間に迎えられた。

 ステージを去るとき、MCは「目頭が熱くなってませんか?(微笑)」と訊ねたが、苦節10年めにしてはじめての栄冠だ。熱いものが込み上げて当然である。ステージから塾生の集まる場所へ向かう際、長岡さんは涙目を茶化されないようにグッと堪えた。しかし、花束という粋な演出に、まぶたを閉じると溢れ出しそうな涙を目に貯めて微笑んだ。
 「10年……昨日までは長かった。でも今思えば、短かった気がしますね」と勝者は語る。
 一度の優勝で過去が清算される。それがトーナメントの怖さであり、美しさなのだろう。

(山田塾とは、アングラーが知らずの間に集結して山田貴之さんを慕い、釣りについて語り合う仲間集団。山田さんは「結成した覚えはない」と言うが、「慕ってもらえるのはありがたいことだし、仲間は大切だから」と語る。大会の後には恒例の “山田塾反省会”が行なわれ、不本意な成績で終わった選手は山田さんからお叱りの言葉を数時間に渡って頂戴するとか)

「山田さんに『お前にまかせて引退するよ』って言われるくらい、ガンガン行きたいです。頑張っている姿を見せるのが、私なりの感謝の気持ちだと思ってます」


 第2戦がスタートする直前の土浦新港で、思いもよらぬアクシデントが発生した。長岡正孝さんのクルマのバッテリーが上がってしまったのだ。まったくパターンが見えない状態で帰港した前日の最終プラクティス。その夜、パートナーの海藤真也さんとミーティングをするが、不安だらけで朝を迎えた。そこに追い打ちのハプニングだ。焦っている表情は、誰が見ても一目瞭然であった。
 そんな長岡さんに山田塾塾長の山田貴之さんが声をかけた。「つぶしが効く間に、(シャローを)撃ってこい」と言われたという。長岡さんのメインエリアとは出島付近の岩盤だったわけだが、目に見えないストラクチャーを撃ってダメだった場合、テンパったまま試合が終わってしまう。なら、バスの活性の高い時間帯に目に見えるストラクチャーを攻めてからでも遅くないだろう、と。岩盤でダメだったとき、シャローに向かっても遅いことがある。行く順番を考えろよ、という師匠からの温かいアドバイスだった。
 
 長岡さんはあまり感情を表に出すタイプではない。アルコールが入ると、別人に変貌するらしいのだが、釣り対してはマジメで繊細な方である。そもそも長岡さんが山田さんに出会ったのは高校生のころだった。自分がよく行くショップに山田さんも客として来ていた。だから、後に山田さんから直接釣りを教授されるとは、少年時代には思ってもいなかった。
 よきライバル、釣り仲間であり、そして心の内側を120%話し合える親友の桂裕貴さんが長岡さんをW.B.S.へと勧誘。山田塾に入ってみると、山田さんは他のアングラーとは異なった凄味をまとっていた。「トーナメントの第一線で活躍する人は違うなぁ、と思いました」と長岡さんは当時を振り返る。
 90年代中期、長岡さんはスランプに陥っていた。プラでは最高に調子がいいが、本戦になるとその成果を発揮できず、特に天候が急変したときなどは、悲惨な結果も残した。だからこそ、ひと言ひと言山田さんに声をかけられるたびに背筋を走る恐怖感があった。それを味わうことで成長できるのだろうが、スランプからは抜けきれず、「(大会参戦を)辞めたい」とまで思い詰めたこともあった。
 あくまでも自然体で闘うこと。それが自分らしさを出せるきっかけだった。その自分らしささえも、長岡さんの心中では燻りかけていた。自分らしさとは、牛久沼で釣りを覚えたころに気持ち。山田さんが本戦早朝に語りかけてくれたように、手返しのいい釣りが今大会における長岡さんの自然体を呼び起こしていた。
 スタート直後、小野川でのシャローパターンを進めるなかで、1尾めのバイトをミス。2尾めをランディング。3尾めをボート目前でバラすという展開を迎えた。ここで長岡さんは「(バスに)嫌われた、と感じなかった。逆に釣れてるし、イケるかな」とポジティブに捉えていた。
 「『小野川でノーバイトだったら……』とは全然考えていませんでした。いつもなら多少不安になっていたかもしれませんが、今回はなぜか噛み合った。緊張はしていました。2尾もバラしたのに、まだ余裕があった気がします」と移動前の気持ちを述べている。
 長岡さんの集中力はメインエリアであった出島に着いてからも衰えなかった。試合終了の15分前、肉体的、精神的にも疲れているこの時間帯に2尾のバスを釣り上げた。

 2000年には仕事中に右手を負傷し、腱と神経を断絶するという事故に遭遇した。その後リハビリの成果で80%まで回復したらしいのだが、その年は試合に出場できなかった。2001年はW.B.S.スタッフとして係わり、2002年に大会へ復帰。ブランクがあったためか、成績は思うように伸びなかった。そして今大会で初優勝を味わい、長岡さんはW.B.S.第一線への完全復帰宣言を唱えた。
 「今までホント多くの人に支えられて、助けてもらって、表彰式では言葉が詰まって感謝の気持ちを伝えられなかった。でも、私のホントの感謝の気持ちというか、やるべきことは、山田さんを引退に追い込むことです。『お前にまかせて引退するよ』って言われるくらい、ガンガン行きたいです。頑張っている姿を見せるのが、私なりの感謝の気持ちだと思ってます」。

冬の霞ヶ浦に強いと期待されていた蛯原英夫さんに何が起こったのか!? 

 蛯原英夫さんはバス釣りをするのに、非常に恵まれた環境で育った。ちょうど牛久沼と小貝川に挟まれた場所に実家があり、フィールドまでは自転車で10分もかからない。小学3年生でフナ釣りをはじめたそうだが、バス釣りに出会うには時間はかからなかった。「アメリカから来た魚が釣れるらしいぜ」と聞き、スプーンやスピナーを持参して初バス釣行に向かったという。
 そんな幼少時代を過ごした蛯原さんも今ではビッグタイトルを奪取するプロアングラーへと成長し、W.B.S.の舞台で活躍している。
 蛯原さんがW.B.S.に参戦しはじめたころは、浚渫や岩盤などやや沖のディープをいかに攻略するかが勝利へのカギだった。湖底変化に乏しい霞ヶ浦では、1つの岩や水没した杭も見逃せない重要なスポットである。ゆえに、そんなインビジブル・ストラクチャーをどれだけ知っているかで勝敗がついた時代だった。
 しかし昨シーズンや今シーズン第1戦、第2戦の結果を見て、「数年前に流行ったエリアが沈黙してるでしょ。だから、ウエイトが伸びないんですよ。それ以外にもやる場所はいっぱいあります。でも、雰囲気のいい場所にバスがいない。じゃ、どこにいるんだろう。これからがW.B.S.選手の腕前の見せ所なんですよ」と蛯原さんは語る。要するに、いい思いをしたころの幻想に惑わされていては勝てない。ならば、新しいスポット、新しい釣り方、今のバスの傾向を見つけ出してやろう……。これが蛯原流探求心の源である。
 「もちろんカスミでもやりますよ。でも、目の前に牛久沼があるし、小貝川もある。利根川だって近い。仲間とは桧原湖にも行ってますよ。いろんな場所で釣りをすると、知識も経験も増える。それがカスミの釣りに生かされるし、試合にも役立ってると思います」。

 W.B.S.2002年シリーズ第1戦(12月2日)、蛯原英夫さんは優勝を果たした。2003年シーズン第2戦には2位に入賞。これだけの成績を残していれば、期待がかかって当然である。しかし今季第1戦は船外機のトラブルに見舞われ、無念のノーフィッシュ途中棄権で試合を終えた。船外機は乗せ変えることにしたが、予想以上に時間がかかってしまい、ニューエンジンでプラに出たのは3月第2週の週末だった。この日はエンジンの回転を見るため、実際に釣りをしていない。つまり、彼が本腰を入れてプラをしたのは、翌週末と試合前日の2日間だった。
 実際にロッドを持ってプラをやってみると、バスの活性がよくないのに気がついた。ただ流入河川をチェックしてみると、ベイトの動きが見えた。生命感はあるが、水質が悪く、水が死んで見えた。優先させるファクターとして、ベイトより水質のいいエリアを回ることにした。
 残念だが、今回は試合時間をフルに使ったが、バスに出会うことはなかった。
 蛯原さんは、「一箇所に止まったからなんです。一文字の消波ブロックを行ったりきたりして時間が経っちゃった。ここで釣れるって確信はあったけど、同じような条件のエリアを回ったほうが釣れたかもしれない」と敗因を述べている。
 蛯原さんが他のアングラーと異なる部分は、自分の敗因を認め、また最初からやり直す勇気があることだろう。アングラーというもの、やはり過去の実績にとらわれて、なかなか新パターンを開拓できない。ところがパターンを捨てるのも進歩へのワンステップなのだ。たとえば、蛯原さんは2002年第1戦のプラで、7尾で9000gを釣り上げた。しかし、これは春のバスだ。本戦に入れば、彼らは移動してしまっているだろうと考えた。実際に彼はこのパターンを捨て、別のパターンでバスを捜し、7950gをウエイイン。見事優勝をしてみせた。
 「あのとき、プラで釣ったエリアに行ったら勝てなかったと思う。バスがどこに移動するのかを先回りして想像するから、バス釣りは面白い」と言う。
 第1戦、第2戦に続いてノーフィッシュとなった蛯原さんは、もう後がない状態になっている。昨年、一昨年の冬に開催された大会で優勝と2位を獲得していることもあり、どうしたのか!? と尋ねてみた。すると、「どちらかというと、得意な時期じゃないかもしれない。春から夏の方が好きかもね(笑)」と本音過ぎるトークであしらわれた。ということは、これから蛯原さんのワイルドハートが開眼するということだろう。120%に加熱した蛯原英夫を見られる日は近い。