バスフィッシングと出会って20年あまり。
すっかりオッサンになったかつての釣り好き少年が、
これまでに出会ったさまざまなことを
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TEXT by Jun Sugawara

BEAT 17  秋田県のイベント「八郎大好き、守ろうフェスティバル」Part 2(2003/9/30)

池田清彦さんの基調講演に引き続き、会場ではパネルディスカッションが始まった。
このパネルディスカッションには釣り人や釣りの関係者、そして漁業者や行政の担当者の方々が出席。
キャッチ&リリースが罰則付きで禁止された直後の秋田県ということもあり、
私は反対派と賛成派が互いの意見をぶつけあう場になってしまうのでは……と危惧していた。
いわゆるバス問題というものは、実に複雑な要素がグチャグチャと絡み合っている。
釣り人の意見、釣り人に依存している地元の方の意見、漁業者の意見、学者の意見、
釣り人とは直接関係のない地域の人々の意見、行政の意見……。
バスに限らず、こういったさまざまな立場の人々の意見が完璧に一致することなどありえない。
なにしろ、バスが日本に初めて移殖されてから、すでに80年近い年月が経過しているのだ。
ビシッと解決する方法があるなら、バス問題などとっくに解決しているはずだろう。
今回のようなパネルディスカッションだけで秋田県のバス問題が解決するワケなどなく、
反対派と賛成派が双方の意見をぶつけあって終わってしまう可能性は高かったのだ。
ところが、今回に限っていえば意見のぶつかり合いに終始することはなかった。
これは、コーディネーターを務めていた升秀夫さんの、
見事なコーディネートの賜物だといえるだろう。
このパネルディスカッションを行なうにあたって、冒頭に升さんからひとつの提案があった。
それは「会場の人々が八郎潟に対する知識を共有しましょう」ということだった。
先に挙げたように、このパネルディスカッションにはさまざまな立場の方が参加している。
八郎潟で産湯をつかった方もいれば、年に数回だけ釣りに来る県外の方もいるわけで、
当然、この両者の八郎潟に対する思い入れや認識は大きく異なる。
認識が異なるということは、つまり「八郎潟」の存在意義が異なるのだから、
論議が簡単に噛み合うはずがないのは当然のことなのだ。
わずか45年ほど前まで、琵琶湖に次ぐ我が国2番めの大きさを誇っていた八郎潟が、
どのようないきさつで現在のような姿になったのか。
そして、地元で暮らす方々にとって、八郎潟はどのような存在なのか……。
まずは私たちバスアングラーがこれを知り、理解する必要があるし、
そのうえでバスフィッシングを考えるべきだという升さんの提案は、当然のことだろう。
恥かしい話だが、私自身も八郎潟の干拓にまつわる経緯についてはまったくの無知であった。
なので、まずは八郎潟が現在の姿になるまでの簡単な経緯をまとめておきたい。
かつて、八郎潟は八竜湖、琴の海、大潟、潟などと呼ばれていたという。
有名な「八郎太郎」の伝説もあって「八郎潟」や「八郎湖」という名称がポピュラーではあるが、
現在、八郎潟の正式な名称は「八郎潟調整池」で、法律上は馬場目川の一部で二級河川とされる。
つまり、「八郎潟」や「八郎湖」という名称は俗称ということになるそうだ。
日本海と繋がっていた八郎潟は汽水湖で、ボラやフナ、ハゼ、シラウオ、ワカサギなど、
70種を超える魚類が生息していたという。
かつて八郎潟には3000人もの漁業者がおり、昭和30年には年間8800トンもの漁獲量を誇っている。
なんと、秋田県内における漁類消費量の47%にも及んだ時期があったというから驚きである。
そんな八郎潟が干拓されることになったのは、食料難という深刻な問題が存在していたためだ。
民謡でも歌われるハタハタが有名な秋田県だが、決して海産物に恵まれていたとはいえない。
特に戦後間もないころの食糧難は深刻を極めており、
広大な干拓地における大規模な稲作……これこそが食糧難打開の切り札になるとされたのである。
そして、オランダの協力を得て完成した「八郎潟干拓計画」により、
国の直轄事業として八郎潟干拓が着工されたのが昭和32年4月、
干陸式が催されたのは着工から7年後の昭和39年9月のことであった。
干拓された1万5600ヘクタールの陸地は全国からの公募によって「大潟村」と名付けられ、
昭和41年に行なわれた第一次入植から昭和48年の第五次入植にわたって、全国から580戸が入植。
まさに夢の実現ともいえる八郎潟の干拓事業だが、そこには厳しい現実も待ち受けていたという。
新聞などで「日本初の機械化農業」と報道され、期待された大潟村の農業だが、
干拓によって誕生した陸地は軟弱なヘドロ地盤で、農地としてすぐに活用できる状態ではなかった。
10アール当たりの収穫量が基準値ともいえる450kgを越えたのは、昭和46年以降のことだ。
もちろん、ここに至るまでには入植者たちの、まさに血の滲むような努力があったのだ。
しかし、そんな人々の努力に冷や水を浴びせたのが、昭和45年にはじまった国の減反政策である。
さらに、米価引き下げによって収入の減少を余儀なくされた入植者の中には、
農機や肥料、農薬のための借金返済に苦しむ者も少なくなかったのである。
また、「国のため」「食料確保のため」という大義名分において、
断腸の思いで干拓を見つめてきた八郎潟の漁業者たちのことも忘れてはならないだろう。
地元の方々が、それぞれ複雑な思いを寄せる八郎潟。
基調講演で池田清彦さんがおっしゃっていたように、
干拓と淡水化によって、かつての八郎潟の生態系が失われていることは間違いない。
しかし、この干拓が地元の方々の総意であったかというと、答えは“否”だ。
この地でバスフィッシングを楽しみたいと考えるなら、
近代の歴史に翻弄されてきた地元の人々の複雑な思いを、まずはしっかりと受け止めるべきだと私は思う。
今回のイベントは、そういう意味でのスタートラインに立てたという点で、
実に有意義なものだったといえるのではないだろうか。
幸いなことに、八郎潟には今回のイベントを主催した「八郎湖守ろう協議会」、
そして、以前から地元漁業者の方々と話し合いの場をもってきた「NPO法人ヘブン」という存在もある。
今後もこのような会を継続していただくことを強く願いたい。

 

パネルディスカッションには、釣り人の代表や地元の漁業者、行政担当者、さらには県会議員など、さまざまな人々が出席していた。今後もこのような会が継続されることを期待したい

●なお、このイベントのレポートは発売中の雑誌Basser11月号と翌月26日発売の12月号にわたって掲載予定。発行元のつり人社のホームページ:(http://www.tsuribito.co.jp/
●関連サイト
八郎湖守ろう協議会(http://savehachiro.fc2web.com/
NPO法人ヘブン(http://www.heven.jp/